【子】 童話へ何故リアリズムを導入しないか

赤ずきんちゃん
赤ずきん - Wikipedia

このお話で私が気になるのは、オオカミに食べられて、嚥下されていく途中におばあちゃんやあかずきんちゃんが見たもの。内壁はどんな色でどのような形で、どこに腺があってどのように分泌液が出てきているか、どのような種類の音がどういう風に聞こえるか。開腹時のはさみの音、出血の仕方や仕組、等々。(別に子どもが知っていても有害ではなさそうだけれど)

でも、童話は子ども向けで、子どもの頃の私はかかる疑問を解決できなかった。そこで私は、人の体に関する「こどもカラー図鑑」(個人的おすすめ!)等でその分の疑問を少しばかり補ったのであった。勿論物語は暗唱して褒められて嬉しかったけれど、個人的には図鑑の方がとても興味深くて、面白かったな。

自然主義的(特に限定すれば暗黒小説的な)童話はないのだろうか。あればどのような内容か。なければ、どうして無いのか、発達心理との関係でいくばくか説明できないだろうか。大人や社会が子どもをどのようにとらえ、どのように育てたいか、子どもの外側から与えられる意図(奇麗にいえば希望ともいえるか)がそこには存在していないだろうか。また、時代によって子どもに期待される外的な意図は変化してきてはいないだろうか。

少なくとも童話は、子どもの目に触れるまでには、内容を選ぶ側の出版社も同様、第一次的には、親の意図や話者(時には幼稚園小学校教諭(背後に各上位公的機関の意図も影響する)等)が介在する。いわば何重にも事実上の検閲をうけたうえで、子どもに届けられるものである。時代によってはたとえば戦時中では軍国主義的な童話も存在していたであろうし、童話とはいえ、たぶんに社会的なものであることは、否定できなさそうですね!

童話には地域性時代性があり、文化的継承に資する役割をもっています。ここからは私事に寄りますが、私は個人的に私的領域における文化的継承への関心へのアンビバレントな考えをもっています。自分が選ぶものを子どもに選ぶことも多く、私もきっと自分の子どもには自分が触れてよかったと感じるもの、ここちよいものを、無意識に選んでしまうように思います。しかし常に新しい視点を開いておらねば、自分の偏りを子に付与してしまうことになります。ある視点をもつことは大切ですけど、視点や原典にしばられた時点で、柔軟性は奪われてしまうように、感じています。

先日の柄谷氏講演会でも、原典は思考を深めるための素材に過ぎず、乗り越えていくものであるという印象を私はもちました。新しい地平の広がりを見る心地よさ、それが私が小学生以来心地よく感じてきたことであり、今の自分を導いてきている内的な動力源だと思います。

柄谷氏の言及にFUKUYAMAの話題もありましたけど、デリダの1990年代前半の講義をまとめた面白い訳本が出ていますね。 http://book.asahi.com/review/TKY200711060208.html

http://www.amazon.fr/Spectres-Marx-Jacques-Derrida/dp/2718604298Amazon.fr : Livres